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危機において運気を引き寄せるリーダー 七つの心得 - 田坂広志

投稿日:2020/12/29更新日:2023/10/25

本記事は、G1中部2020「withコロナ時代の人間の生き方 - 危機において運気を引き寄せるリーダー 七つの心得 -」の内容を書き起こしたものです。(全2回 前編)

田坂広志氏: 今日のテーマは、「危機において運気を引き寄せるリーダー 七つの心得」ですが、では、なぜ、このテーマでお話をさせて頂くのか。言うまでもなく、今はコロナ危機、日本中、世界中の経営者やリーダーの方々が、大変な逆境と危機に直面されているわけです。ただ、この逆境や危機のときこそ、経営者やリーダーに求められるのは「運気を引き寄せる力」。そう、私は思っています。

もちろん、「運気を引き寄せる」といっても、突然コロナが消えたりするわけではありません。危機が魔法のように消えるわけでもありません。
そうではなく、この「危機」というものを「好機」に変えるということです。世に「ピンチをチャンスに」という言葉がありますが、それを見事に実現するのが、運気を引き寄せる経営者であり、リーダーだと思うのです。

例えば、この何ヶ月も続く危機のなか、皆さんもすでに経験していらっしゃると思いますが、「ああ、これは大変な危機だが、社員の心が一つになった」や「多くの人々が心を寄せてくれる」、「一人一人が成長している」、さらには、「社員のなかから叡智が湧き上がってくる」。そうしたことがあったのではないでしょうか。これは、すでに、危機を好機に変える兆しが生まれているのだと思います。

私は、これまで、いろいろな経営者の経営参謀の仕事を務めてきました。そして、さまざまな経営者を拝見してきましたが、優れた経営者というのは、例外なく、運が強い。運気を引き寄せる力がある。私自身、若い頃は、それが「不思議だ」と思っていましたが、歳を重ねるにつれて、それは「当たり前」のことと思うようになりました。

経営者の「運の強さ」とは、人間力としての「総合力」

若い頃の思い出を申し上げます。私が40代の頃、現在のSMBC、かつての住友銀行で頭取を務められた、小松康という経営者の方がいらっしゃいました。残念ながらすでに他界されましたが、私が日本総合研究所で取締役を務めていた頃、この方は、この研究所の会長でいらしたので、ときおり、会長室に伺い、様々な話を聞き、薫陶を受けることができたのです。
ある日、私は会長に、こういう質問をさせて頂きました。「会長は銀行の頭取だった時代、お取引先が経営危機で再建の対象となったとき、銀行の幹部を送り込んでいらっしゃいましたね。このとき、どのような基準で送り込む幹部を選ばれていたのでしょうか?」。

当時の私はまだ40代初めで、まだ考えが浅く、おそらく、「人心掌握ができるやつだよ」とか、「財務に明るいやつでなければ」とか、そういう答えが返ってくると思っていました。ところが、小松会長は、タバコを燻らせながら一言、明確に言われました。
「君、決まっているよ。運の強いやつだよ」と。そのときの私は、その言葉の最も深い意味を掴めたわけではありませんが、それから何十年の歳月を歩み、今は私も、本当にその通りだと思います。

私自身は、いまだ修行中の人間ではありますが、永年、経営参謀の仕事を務め、また、経営者の道を歩んできた人間として、「経営者にとって究極の力量は何か」と聞かれたら、今は躊躇なく、「経営者の究極の力量は、運の強さ」と、はっきり申し上げます。

そう申し上げると、「運気などという偶然に左右されるようなものが、なぜ経営者の究極の力量なのか?」と疑問を呈される方がいるかもしれませんが、そうではありません。経営者やリーダーにとって「運の強さ」や「運気を引き寄せる力」とは、人間としての「総合力」なのです。それは、永年修行をしてきた方が、自然と身につける、ある種、「究極の人間力」のようなものなのです。私自身、そのことに気がついたからこそ、69歳になっても、「いまだ修行中の身」と申し上げているのです。その意味で、私自身、「運の強さ」という言葉を語るとき、いまだ高き山を見上げるような思いがあります。

世の中では、「運も実力のうち」という言葉がよく使われます。これは、比較的軽い意味で使われる言葉ですが、本当は、極めて深い意味の言葉です。それゆえ、私は、こういう言葉を本気で自分の人生に重ねて語る方こそが、経営者として、リーダーとして、大きな成長を遂げていかれる方だと思っています。

では、経営者の「運の強さ」とは、「運気の強さ」とは、一体、何なのか。
そこには、百の定義があるでしょうが、私は、敢えて、一つの定義を申し上げたい。
それは、自分自身の運が強いことは当然として、それに加えて、自分が預かる会社や組織の運気を高めることができる力のことです。すなわち、「自分だけでなく、自分が率いる会社や組織の運気を高める力があるか」。この問いを、皆さんも、一人の経営者やリーダーとして、自分自身に問うてみて頂きたい。もちろん、この問いは、なかなかに厳しい問いであり、深い問いでもあると思います。

「私の執念が足りなかった」。W杯で岡田監督が発した言葉の意味

なぜ、私は、こういうことを申し上げるのか。そこで、もう一つ、面白いエピソードを申し上げたいと思います。
それは、サッカーの日本代表監督を務められた岡田武史さんのエピソードです。
ご承知のように、2010年のサッカー・ワールドカップ、南アフリカ大会で、岡田さん率いる全日本チームは、ベスト8を賭けて死闘を繰り広げ、延長戦でも決着がつかず、最後のPK戦で残念ながら敗れ去りました。
そのとき、メディアのインタビューを受けた岡田監督は、「敗因は?」と聞かれ、何と答えたか。それは、見事な答えでした。
岡田監督は、ただ一言、「ええ、私の執念が足りませんでした」と答えた。その答えは、「あの選手の起用を誤った」とか、「あの戦略を誤った」といったものではなかった。
この「自分の執念が足りなかった」という言葉は、謙虚な言葉のように聞こえますが、実は、「自分の執念で、チームに運気を引き寄せることができる」という意味の言葉であり、岡田監督の「深い自信」を示す言葉です。

実際、岡田監督は、サッカーの世界で、何度も「運の強さ」を見せています。
フランス大会の最終予選でもそうです。加茂監督の途中退任を受け、コーチから監督に昇格した後、絶対に勝たなければならない試合が引き分けに終わった。誰もが、「ああ、これで予選突破は絶望的になった」と思っている中で、岡田監督はメディアに対して、「いや、まだ首の皮一枚、残っています。ひょっとするとひょっとします」と答えた。その後は、ご承知のように、プレーオフにまで持ち込み、例の「ジョホールバルの歓喜」の瞬間を迎えるわけです。
こういう運の強いリーダー、運気を引き寄せるリーダーは、「自分の執念でチームに運気を引き寄せることができる」と思っている。岡田監督の「私の執念が足りなかった」という言葉は、裏返して言えば、自分の精神力、想念の力によって、チーム全体の運気を変えることができるという信念を述べているのです。それも、肩に力を入れず、この言葉を語るところが見事と思います。
このように、経営者やリーダーに「運気を引き寄せる力」があるというのは、自分自身のことだけでなく、自らが率いる会社や組織の運気を高めることができるということを意味しているのです。

「心の双極性」を理解し、潜在意識もポジティブな想念で満たす

このことを申し上げたうえで、本題に入りたいと思います。
では、経営者やリーダーが、そうした「運気を引き寄せる力」を高めるには、どうしたら良いのか。その答えは、実は、言葉にすれば非常に簡単です。
この「運気論」に関する書物は、古今東西、無数にありますが、どの書物も、「運気を高めるための技法」として、究極、ただ一つのことしか言っていないのです。
それは、「ポジティブな想念を持つ」ことです。すべて、これです。このように言葉にすれば簡単なのですが、実は、これを行ずることが簡単ではありません。いや、極めて難しい。その理由は何か。

その理由も、究極、ただ一つです。これは、最近書いた『運気を磨く - 心を浄化する三つの技法』(光文社新書)という本で詳しく述べていますが、心には「双極性」があるからです。つまり、二つの極に分かれる。分かりやすく言えば、心というのは電気と同じような性質を持つのです。電気は、ご存知のように、プラスの電荷を生み出すと、反対側にマイナスの電荷が同じだけ溜まります。ガラスを絹でこするとプラスの電荷が生まれますが、同時に、反対側にはマイナスの電荷が生まれるわけです。つまり、プラスとマイナスが同じだけ発生する。実は、心にも同じような性質があるため、我々は、心の表面で「ポジティブな想念を持とう」と思っても、心の深いところ、潜在意識の世界に「ネガティブな想念」が生まれてしまうのです。

これは、皆さんも仕事で経験があると思います。例えば、営業会議で田中君という営業担当者に、上司が、「田中君、今期のノルマは達成できるな?」「できます」「できるな?」「できます」「じゃあ、それをはっきり言いなさい」「できます。やります」と、無理矢理言わせたとします。しかし、そうして、無理にポジティブなメッセージを言わせても、実は、田中君の心の深いところに、「できないんじゃないか」「できなかったらどうしよう」「とてもできないよ」という、そうしたネガティブな想念が溜まっていくのです。

このように、古今東西で言われてきた「運気を引き寄せるためには、ポジティブな想念を持て」ということ自体は、決して間違っていないのですが、この「心の双極性」の問題を深く理解したうえで書かれた本は、ほとんど無いと言ってもいい。だから、あえて、先ほどの『運気を磨く』という本を書き、この「心の双極性」にどう対処するかを書いたのです。すなわち、部下や社員を前に、表面意識だけ、「できると信じましょう」「今回の事業は成功すると唱和しましょう」などと言ってみても、彼らの潜在意識の世界には、その逆のネガティブな想念が溜まっていきます。そして、我々の人生を支配するのは、言うまでもなく、潜在意識の世界のほうです。その世界こそが、結果を引き寄せてしまうのです。
では、どうするか。その視点から、本日のテーマである「七つの心得」という話に入りたいと思います。

「絶対肯定」の想念で、死生観を定め、「天が導く」との覚悟を決める

まず、第一の心得は、「目の前の危機を『絶対肯定』の想念で見つめる」。
これはどういうことか。「絶対肯定」というのは、分かりやすく言えば、「ポジティブしかない」という想念です。先ほどの話と少し矛盾するように聞こえるかもしれませんが、このあと、その意味がお分かり頂けると思います。なぜなら、実は、我々の心には、潜在意識も含めて、「ポジティブな想念しかない」という世界があるのです。そして、実は皆さん、日々、そういう人間に接しています。それは、誰か。

子供です。

例えば、先ほど述べたように、営業担当者の田中君に、「できるな?」と聞くと、心の奥深くに「できないのでは」というネガティブな想念が溜まっていきます。一方、子供の太郎君に、「将来何になりたいの?」と聞くと、「宇宙飛行士になるんだ」と答えたとする。そこで、「本当になれるかい?」と聞いても、「うん、なれるんだ」と、まったく疑おうとしません。心の底から「自分はなれる」と思っている。どこにも、「なれないのでは」という思いが無い。
この子供の姿を何と呼ぶかと言えば、昔から「無邪気」と呼んでいたわけです。「邪気が無い」のです。「ネガティブな想念が無い」のです。だから、子供というのは、ある意味で、「絶対肯定」の想念を持てるのです。もちろん、我々は、ここから、さらに深い心の世界の話に向かうわけですが、まず最初に、この「無邪気」ということ。これは「絶対肯定」の想念の、一つの姿です。

このように申し上げると、皆さんもお分かりのように、優れた経営者やリーダーがどのような人格を持っているか。もちろん、優れた経営者やリーダーは、心の中に様々な人格を持っていますが、例外なく、誰もが一つ、「無邪気な人格」をお持ちではないでしょうか?
例えば、ご本人を前に名前を挙げて失礼ですが、このG1サミットの中心にいる堀さん。もとより、経営者としても大変優秀な方ですが、やはり、この「無邪気さ」をお持ちです。実際、10数年前に堀さんがG1サミットをやるといったとき、これほどの世界を創ることができると、誰が思ったでしょうか。「頑張ってやったとしても、これくらいで終わるのでは?」「はたして、10年続くだろうか?」と思った方も、たくさんいたのではないでしょうか。しかし、堀さんは、一人だけ、「絶対にできる」と、無邪気に信じていた。その結果が、現在のこのG1の素晴らしい広がりではないですか?

もう一人、失礼ながら、名前を挙げさせて頂くと、鈴木英敬知事。この方も、本当に優秀な方だと思います。本日、他のセッションでの登壇を拝見していても、その発言など見事だと思いました。しかし、やはり伝わってくるのは、まず、ご自身の語る言葉を絶対に信じていることです。信じ切っている。この「無邪気」とも言える信念。それは、運気を引き寄せるリーダーの絶対条件です。
そのことを申し上げると、第一の心得、「目の前の危機を『絶対肯定』の想念で見つめる」ということの、「絶対肯定」の意味を、理解して頂いたかと思います。

ただ、この「絶対肯定」の想念を持つためには、これ以外に、さらに深い二つの心得があります。従って、ここから少し深い話になりますが、この「無邪気」ということを聞かれて、「まあ、そうなんだけれども、でも、なかなか無邪気にはなれないな」と思われる方も多いのではないでしょうか。なぜなら、我々大人には「分別」があるからです。
すなわち、「分ける」「別れる」と書いて「分別」。我々大人は、この「分別」があるために、必ず「二項対立」の世界に入ってしまうのです。「成功」と言えば「失敗」が心に浮かぶ。「勝利」と言えば「敗北」が浮かぶ。これが「分別」ある大人の心の性質です。
では、その心の性質がゆえに、なかなか「無邪気」になれない大人が、それでも、どうすれば「絶対肯定」の想念に向かうことができるのか。これが、第二の心得です。
それは、「危機のときこそ『死生観』を定める」という心得。「死ぬ」「生きる」という次元での「死生観」を定めることができたならば、実は、それが「絶対肯定」の想念を生み出します。

では、「死生観」を定めるとは、何か。それは、人生における「三つの真実」を見つめることです。

「人は、必ず死ぬ」
「人生は、一度しかない」
「人は、いつ死ぬか分からない」

これは、誰もが認める人生の真実なのですが、我々はその真実を、なかなか正面から見つめようとしないのです。しかし、これを正面から見つめたら、黙っていても「絶対肯定」の世界に入っていきます。

私が若い頃に薫陶を受けた、もう一人の経営者の方がいらっしゃいます。この方には良い勉強をさせて頂きました。この経営者は、戦争から戻ってきた方であり、戦地で戦友の多くが死んでいくという修羅場を体験された方です。中小企業を経営されていた方ですが、「勉強になるから、君も、ときどき来て経営会議を見ていなさい」と言われるので、私も学びの良い機会と思って、しばしばその経営会議に同席していました。
しかし、ある日、その会社で大変な出来事が発生したのです。

その日の経営会議では、経営幹部たちが、「社長、顧客との間で、こういう大変なトラブルが起きました!」と報告している。それを横で聞いていた私も、「これは会社が吹っ飛ぶのではないか」と思うようなトラブルです。幹部の方々も、なかなかの猛者なのですが、そのときは、皆、顔面蒼白になっている。
しかし、その経営者の方、幹部に「社長、どうしましょう!」と問われて、その答えは、お見事でした。この経営者、何とおっしゃったか。
一呼吸置いて、「ああ、大変なことが起こったな。このトラブル、下手すると会社が吹っ飛ぶぞ」。しかし、その後の一言がお見事でした。
「だがな、一つだけ言っておく。命取られるわけじゃないだろう!」。
そう、腹を据え、ズバリとおっしゃったのです。

すると、幹部の方々も、なかなか見事な猛者でしたから、その瞬間、その言葉で、フッと表情が変わった。そして、肝が据わった。「そうだ。所詮、命を取られるわけじゃない」。その経営者の覚悟が伝わった。
もとより、この経営者は修羅場の戦地から戻っていますから、「生きているだけで有り難い」というところに原点を置いています。その意味で、「命取られるわけじゃない!」「生きているだけ有り難い!」という覚悟、これほどポジティブな想念はありません。

私もまだ修行中の身ですが、それでも37年前に、生きるか死ぬかという大病を体験させて頂きました。当時は本当に、「あと一日、生かして頂きたい」という思いで必死に生きていました。ですから、それから37年、今こうして皆さんの前でお話をさせて頂くことが、本当に有り難いと思っています。そして、人生で多少の逆境があっても、「あのとき死んでいたかもしれない」と思うと、不思議と勇気が湧き上がってきます。
これが第二の心得、「死生観を定める」です。それを定めれば「絶対肯定」の想念を掴むことができる。

そして、「絶対肯定」の想念を掴むための、もう一つの心得があります。それが第三の心得。
「『すべては天が導く』との覚悟を定める」です。
すなわち、「自分の人生は、大いなる何かに導かれている」という「信」を持つことです。そして、人生で何か逆境がやってきたとき、「この苦労も困難も、失敗も敗北も、挫折も喪失も、病気も事故も、すべて、大いなる何かが、この逆境を通じて自分を育てようとしている。そして、自分を育てることによって、その自分に素晴らしい何かを成し遂げさせようとしている」と思い定めることです。
もし、本当に、そう思い定めることができたなら、人生でどのような逆境が与えられても、「ああ、この逆境を通じて、また成長させて頂ける」と、肝が据わります。

この「天が導く」との覚悟に関して、一つ、エピソードをお話ししましょう。
イタリア在住の日本人で、塩野七生さんという文筆家の方がいらっしゃいます。ご存知の方も多いと思いますが、なかなか良い本を書かれます。この方は、『ローマ人の物語』を始めとして、特にヨーロッパ史における色々な英雄を調査・研究し、本にされています。そして、この塩野七生さんは、シーザーやチェーザレ・ボルジアなど、数多くの英雄の人生を調べてきて、「究極、どの英雄にも共通する資質が、一つある」と言われるわけです。
実は、それが今お話ししていることです。歴史を変えるような偉業を成し遂げた英雄は、誰もが、「自分は大いなる何かに導かれている」と信じている。ヨーロッパですから、「自分は神に導かれている」「神に護られている」と信じている。その「信」と「覚悟」を持っているのです。この塩野七生さんの歴史的英雄を論じる視点は、私もまったく同感であり、意を強くします。

今、「信」ということを申し上げました。これは経営者やリーダーの方に、絶対必要なものです。そして、「信」という言葉の意味は、「無条件」ということ。例えば、「運気」などと言うと、「その運気というものには、何か科学的な根拠があるのでしょうか」と言う方がいます。しかし、科学が証明するものは「信」ではありません。それは、単なる「科学的常識」です。

では、「信」とは何か。
それは、「誰も証明しない。どこにも証明などない。しかし、自分の人生において、自分はそれを信じる、そこに人生を賭ける」という覚悟を「信」と呼ぶのです。そして、経営者やリーダーが、この「信」を深く抱いているとき、まさに「運気」を引き寄せます。「断じて行えば、鬼神も之を避く」という言葉がありますが、そういう世界すらある。これも、古今東西、語られてきたことです。

この三つの心得、「無邪気である」、「死生観を定める」、そして、「天が導いていると信じる」。これができたら、我々は、自然に「絶対肯定」の世界に入ることができます。もちろん、それは、この30分の講話で簡単に掴めるようなものではありません。私自身、いまだ、その修行の道半ばです。しかし、目指すところは明確です。歳を重ねるに従って、こういう「絶対肯定」の想念の世界に向かっていきたいと思います。

自分の心の置きどころが変われば、不思議とメンバーも変っていく

では、我々が、経営者やリーダーとして、その「絶対肯定」の精神や想念を身につけたとき、何が起こるのか。
その結果、まず、社員や部下の想念がポジティブなものに変わっていきます。そして、それが、組織全体の運気を高めていきます。そこで、第四の心得の話になるわけですが、では、そのために、どうすれば良いのか。
実は、何もしなくて良いのです。
自分の想念が無意識の世界も含めてポジティブであれば、何もする必要はありません。すべて伝わります。なぜなら、「リーダーの無意識はメンバーの無意識に必ず伝わることを知る」。それが第四の心得です。

これには二つの理由があります。
第一は、比較的浅い理由になりますが、コミュニケーションの8割は「ノンバーバル」、すなわち、言葉を超えた世界で伝わるからです。分かりやすく言えば、皆さんが「この目標は達成できる」といくら言ってみても、それは2割しか伝わっていません。一方で、その表情や眼差し、言葉の抑揚、姿勢、雰囲気、しぐさ、それらを通じて心の中のネガティブなものはすべて伝わります。心の中の「自信がない」「不安だ」という想念を一生懸命に隠して、どれほど「できる」「やれる」と言ってみても、そのネガティブな想念は、すべて伝わってしまう。いずれ、隠しようがありません。我々、経営者やリーダーの心の深い世界が本当にポジティブでなければ、どれだけ虚勢を張ってみても、言葉だけで「できる」「やれる」と言ってみても、無意識の世界ですべて伝わります。これが第一の浅いほうの理由です。

では、第二の理由は何か。
カール・グスタフ・ユングという心理学者が「集合的無意識」ということを言っています。「集合的無意識」とは、人の心は、非常に深い無意識の世界でつながっているという考えです。私は、この考えを信じています。これは理論的に信じているというよりも、体験的に信じざるを得ないのです。

会場にいらっしゃる皆さんも、そうした経験が一つや二つ、あるのではないでしょうか? 例えば、最近、職場でトラブルが続いている。田中君がこんなトラブルを起こした、鈴木君があんな問題を起こした、といった状況で、なぜ、これほど職場でトラブルが起きるのかと感じるときがあるとします。ところが、その職場を預かる経営者やリーダーとして、ある夜、一人で静かに内省していると、ふと気がつく。
「ああ、考えてみたら、自分の心の置きどころが、どこか間違っていた。どうして田中はとか、なぜ鈴木はとか、そんな部下を批判する思いばかり募って、自分の心が不調和になっていた」。そう気がつくときがあります。

我々は、何年か心の修行を続けていると、そうした気づきを得ることがあります。
「ああ、そうだ。これは自分の心の置きどころが間違っていた。やはり、田中君と鈴木君に感謝しよう。彼らは、まだ成長途上だ。けれども、一生懸命に頑張って、この組織を、この会社を、支えてくれている。その彼らに感謝しよう」。そんな風に思って、翌日会社へ行くと、不思議なことに、変わっているのです。何も言っていないのに、すでに田中君や鈴木君の姿勢が良い方向に変わっているのです。
そういった経験を、皆さんもお持ちではないでしょうか?
だから、経営の世界は面白いのです。そして、奥が深いのです。

さて、そうしたことを申し上げると、第五の心得につながります。
それは、「危機のときこそ社員や部下に『使命感』を語る」という心得です。
皆さんには、ぜひ、これをやって頂きたいのです。社員や部下に使命感や志を語るとは、分かりやすく言えば、「この仕事を通じて、世の中に光を届けよう。この事業を通じて社会に貢献しよう。社会を良きものに変えていこう」というものです。その使命感や志を、皆さんは社員や部下、組織のメンバーに語っていますか? もし、皆さんが、この使命感や志を本気で語ったならば、社員や部下、メンバーの心は必ずポジティブになっていきます。

それは当然です。使命感や志を持つということは、「自分の人生には、どれほどの逆境があっても、大切な意味がある。素晴らしい意味がある」「自分の人生、この逆境のなかにあっても、世の中に光を届けるという素晴らしいことに向かって、今歩んでいる」と信じられるということです。そうしたことを本当に信じているならば、社員や部下、メンバーの心は、黙っていてもポジティブになります。自分の人生を全肯定していますから。
その意味で、敢えて申し上げたい。「危機のときこそ社員や部下に『使命感』を語る」ということ、それが第五の心得です。

そして、ここまで申し上げると、このG1という場の意味がお分かりになるのではないでしょうか? もちろん、今日も色々なセッションで素晴らしい話がされていました。私も、本当に学ぶことの多い話を聞かせて頂きました。しかし、究極、G1という場は、何をする場なのか。
実は、地域会議もG1サミットも、毎年一度集まって、互いの志や使命感を見つめ直し、互いに語り合う場ではないですか。そして、この一年、どのような実践をしてきたか、次の一年、どのような挑戦をするか、その思いを交わし合っている場ではないですか。

ですから、会場の皆さん、私の話を聞きながら、本当は、こう思っていらっしゃるのではないですか。 「自分は運が強い」「自分には運気を引き寄せる力がある」。先ほどから皆さんの表情を拝見していると、その思いが伝わってきます。
そうです。もう10年を超え、志や使命感を語り続け、実践し続けるこの人間集団。
黙っていても、皆さん、素晴らしい運気を引き寄せる。そう私は思っています。

何気ない出来事に天の声を感じながら、ただただ「導きたまえ」と祈る

そのことを申しあげたうえで、この「運気」というものを論じるとき、さらに二つ、付け加えておきたいことがあります。一つは、「天の導きは『一直線』ではないことを知る」ということ。これが第六の心得です。
すなわち、「天に導かれる」ということの意味は、順境や幸運が次々に訪れるということでは、まったくないのです。むしろ、その逆です。私自身、69年の人生の経験を振り返って、そう思います。敢えて申し上げれば、「幸運」というものは、「不運」の姿をしてやってくるのです。皆さんも、そうした経験を、たくさんお持ちではないですか。 「いま、振り返ってみると、あの苦労があったから、皆の心が一つになった」「あの逆境のおかげで、自分たちは成長できた」「あの危機が、実は大きな転機だった」「あの危機のおかげで、新たな方向に進むことができた」。そうした経験を、いくつもお持ちでははないですか。

「不運」に見える出来事、「逆境」に見える出来事は、天が我々を導くために与えている。我々を成長させるために与えている。その深い意味を見つめるならば、実は、「幸運は、不運の姿をしてやってくる」ということが、分かってきます。有り難いことに、私は、人生の様々な経験を通じて、そのことがだんだん分かってきました。そのため、最近では、逆境がやってくるたびに、「これは、何の導きだろう」「これは、どう成長せよということか」と考えることが、自然な心の習慣になっています。

そして、最後の第七の心得は、「危機において起こる『シンクロニシティ』に注意を向ける」です。なぜなら、我々を導く天の声は、例えば、巫女さんが突然お告げをするような、そんな劇的な形で降りてくるようなものではないからです。天の声は、むしろ、日常の何気ない小さなことを通じて聞こえてくる。

その意味で、興味深いのが「成功者の自叙伝」です。例えば、日経新聞に『私の履歴書』という連載がありますが、この連載を分析した研究者がいました。
この研究者は、この連載に自叙伝を寄稿するような成功した人たち、功成り名遂げた人たちは、一体、過去を振り返るとき、どのような言葉を最も良く使っているのかという分析をしたのです。当初、予想されたのは、「努力して」や「頑張って」といった言葉でしたが、実は、そうではありませんでした。
最も良く使われていた言葉は、「たまたま」「ふとしたことで」「折よく」「偶然」といった言葉でした。

これを聞いて、「ああ、やはり、人生で成功する人は、皆、運が良いのか」と思うかもしれませんが、それは、少し理解が浅いかと思います。
そうではない。彼らは人生における「何気ない出来事」のなかに「天の声」を感じる力が優れていたのです。だから、たまたま誰かが声を掛けてくれたとき、「これは何か意味があるのではないか?」と感じる直観が鋭いのです。その直観力が優れているのです。そして、天が我々に何かの声を伝えてくるときというのは、決して劇的な形ばかりではないのです。逆境のとき、ふと目に止まった、新聞の片隅に載っていた記事かもしれない。たまたま、電車で横にいた客同士が語っていたことかもしれない。そうした「何気ない」ことに、ピンと感じる、その感じる力や直観力があるのです。

では、その感じる力や直観力は、どのようにして身につけることができるのか。ここから先は、私もいまだ修行中です。「この答えはまた次回に」と言いたいところですが(会場笑)、それではあまりにも申し訳ないので、最後に一言、今の私の修行を申し上げておきたいと思います。

それは、「祈る」ことです。
私は、日々、祈ります。毎朝、自宅から富士に向かって、「導きたまえ」と祈る。それ以上は祈りません。ただ、大いなるものにすべてを任せる「全託の祈り」です。「あれを、ああしてください」「これを、こうしてください」という風には祈りません。それは、「要求の祈り」だからです。
では、なぜ、「導きたまえ」の祈りか。なぜなら、自分の人生が大いなる何かに導かれていることは、もう分かっているからです。そして、その「信」を深めていくと、不思議なほど、人生の様々な場面で、「こう行動しなさい」「この方向へ進みなさい」という声が聞こえてくるのです。

昨日、ふと、その声が聞こえてきたので、今日、こうしてこの場にやって参りました。そして、今日も皆さんと、かけがえのない一期一会の時間を共に過ごさせて頂きました。そのことに、改めて、深く感謝を申し上げます。有り難うございました(後編に続く)。

執筆:山本 兼司

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