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幕末の賢侯・島津斉彬に学ぶ、現代でも通用するリーダーシップ術とは?

投稿日:2018/03/01更新日:2019/04/09

島津斉彬NHKの大河ドラマ「西郷どん」が始まった。西郷隆盛が主役であることは言うまでもないが、その隆盛の人格、思想、行動に多大なる影響を与えたのが薩摩藩第11代藩主・島津斉彬である。斉彬は、越前福井藩の松平春獄、土佐藩の山内容堂、伊予宇和島藩の伊達宗城と並び「幕末の四賢候」と称せられ、内外から厚い信頼を得ていたが、50歳で急死した。藩主として在位したのは6年5カ月だけである。

この短い期間に、どの様にして薩摩藩を雄藩に育てあげ、議論を纏め、隆盛ら次世代に生きる人材を育成したのか。幕末の賢候に焦点を当て現代に生きる我々に対するヒントを探る。

斉彬の足跡:日本の近代化事業を他藩に先駆けて実行

薩摩藩は日本の最南端に位置し、当時領有していた琉球を入れると、南北1,200キロにも及ぶ広大な領域を治めていた。現在の鹿児島市を中心に1,200キロのコンパスで円を描くと、江戸はもちろん、朝鮮半島や中国の一部もその円の中に入ってしまう。その中国はアヘン戦争でイギリスに完敗し、香港割譲などを認めた不平等条約を押しつけられていた。このニュースは衝撃を持って日本にも伝えられ、「次のターゲットは日本」という恐怖に見舞われていたに違いない。そのリスク(注:将来の事象や期待値に対する不確実性)に最も晒されていたのが薩摩藩である。

自然、薩摩藩には「いかにして西洋列強と伍して戦うのか」という気持ちが芽生え、薩摩藩主に就任するや否や、斉彬が真っ先に着手したのが本格的な洋式砲の製造である。鉄製砲を製造するには銑鉄を再び溶かす反射炉が必要であるため、斉彬はまず反射炉の建設から取りかかった。1号炉に続き2号炉が完成、さらに銑鉄を作る溶鉱炉、ガラス工場、また、日本初の軍艦まで製造している。

キーワード1:強い信念

リーダー自らが率先して強く豊かな国づくりをするという考えは、現代に生きる我々にとっては当たり前のことかも知れない。しかし、考えてみて欲しい。当時の幕府や藩はそれぞれが半ば独立した国家であり、その枠組みを打ち破り、互いに連携することなどは極めて困難な時代であった。また、260年間もの泰平の世に生きてきた江戸時代の人々にとっては、斉彬がやろうとしていることは「宇宙人の侵略に備えて、地球上の国々が一致団結して準備しよう」と言っている様なもので、この考えにピンと来ていたとは思えない。

理解者がほとんどいない中で、心が折れそうになりながらも何が彼を支えていたのか。月並みな言い方だが、強い信念、あるいは、国を想う真心とでも言えるものではなかろうか。

当時の日本は、ペリーの黒船来航で大混乱に陥り、これに端を発した形で「尊王攘夷」論が台頭し始めていた。しかし、冷静に考えれば、攘夷を実行しようにも何も武器を持たず日本刀だけで対抗できる訳がない。これは筆者の私見だが、斉彬の心中には、「軍事力というハード面での充実があってこそ、外交政策というソフト面が成立する」という現実的、且つ、バランスの取れた発想があったのではないかと感じる。

キーワード2:ひとつ先まで見据える

斉彬が名君として現代にも語り継がれるには他にも理由がある。筆者はそれを「ひとつ先まで見据える」視点と考える。

幕府や他藩の近代化政策は軍事関係のものが多く、いわゆる「強兵」策と言える。それに対し、斉彬は「“富国”強兵」を強く唱え実行した。反射炉や溶鉱炉などの建設に加え、先にも紹介したガラス工場、紡績、写真、出版、食品加工など産業の育成、教育水準の向上や医療体制の充実など、社会インフラの整備にも積極的に取り組んでいる。

日本侵略を目論む西洋列強に対抗する「第一目標」を設定・実行するに留まらず、その後の日本の発展を見据え、ハード・ソフト両面での充実をも窺う「第二目標」を掲げた斉彬の先見の明は、他藩主の類を見ない。特に、教育面に関しては、身分の上下に関係なく、優秀な人材を積極的に登用した。「まずは、相手の言い分をじっくりと聞き、その意見とは違う見解を示し、再考を促す」というコミュニケーションスタイルは忍耐や胆力が必要であるが、大いに学ぶものがある。

キーワード3:良い指導者を持つ

斉彬が西郷隆盛や大久保利通らに多大なる影響を与えたように、斉彬にもまた指導者とも言える人物がいた。曾祖父の島津重豪である。薩摩藩第8代藩主である重豪は人材教育や海外(特に、オランダ)との交流・貿易に力を注いだ。重豪は当時18歳だった斉彬を伴い、長崎で外科医シーボルトと会見し、医学のみならず、人類学、地理、政治、経済に関してオランダ語で意見交換したと言う。斉彬に開明主義的思想が植え付けられたことは想像に難くない。

優れた思想や行動力を培うには、優れた指導者、現代で言うメンターが必要である。そのメンターから授けられた考えを自分なりに咀嚼し、新しいものも取り入れ、オリジナルを作る。換言すれば、100%無の状態からオリジナリティーに富んだ思想や作品が生まれることは稀であり、「守・破・離」とも言えるこうしたプロセスを愚直に踏む事が結局は早道なのかも知れない。

話が逸れるが、幕末期の傑出したリーダーには必ずと言って良いほど優れたメンターが存在するから面白い。長州藩の精神的指導者である吉田松蔭には叔父の玉木文之進(松下村塾の創設者)が、また、土佐藩脱藩浪人の坂本龍馬には徳川幕府軍艦奉行並の勝海舟がメンターとして指導している。

最後に

良い指導者からヒントを得て、広い視野から見た目標を立て、最後まで諦めずに目標を実行し、次世代の人材育成も忘れなかった斉彬。その後の明治維新の礎を築いた功績は極めて大きい。

1つだけ弱点を言うならば、斉彬は家老ら藩内の重臣たちに自分の考えを十分に伝えることができなかったように思われる。目まぐるしく変化する政治・国際情勢に対応するために、斉彬は自ら陣頭に立って指導した。極めて先取的な思想や知識に基づいて行動したため、恐らく周囲は斉彬について行くことができなかったのではなかろうか。

斉彬の急死後、藩の重臣たちは斉彬が目指した事業を継続するための指示を出すことができず、藩政は停滞・混乱して行った。リーダーとして人材育成を重要視しただけに皮肉な結果とも言えるが、次世代を担う後進のみならず、自らの考えを理解すべき組織メンバーにも育成対象を広げる必要があったということなのか。自らの死を持ってこの教訓を残したとするならば、現代に生きる我々としてはしっかりと受け止めたいものである。

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