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イー・モバイル会長・千本倖生氏 —世界に通ずるアントレプレナーシップとは

投稿日:2009/01/20更新日:2019/04/09

本日は、皆さんと真剣勝負の“対決”をするつもりでやって来ました。講演依頼をいただくことは数多くありますが、今日は、その中でも最も重要なものの一つと位置づけています。なぜなら、皆さんがアントレプレナー(起業家)を志していると聞いているからです。だからこそ、海外出張を短縮してまで、お話をしにやって来ました。ですから、「このままサラリーマンを続けて、あと少しだけ偉くなれればいいな」というぐらいの気持ちで聞きに来られた方は、お帰りいただいても結構です。今日は、リスクもないけれど喜びもない、そうした振幅の少ない人生から、途方もない飛躍と、その分の苦しみや喜びのある人生、つまり、アントレプレナーの人生というものを受け取って帰っていただければと願っています。

私は、これまで4つの会社を立ち上げ、今は5つ目の会社と格闘しています。会社を興す際の緊張というのは、幾つ立ち上げても同じです。それは例えて言うならば、マラソンランナーがオリンピックのコースに立つ、数十秒前の心境に近いかもしれません。多くの人の注目を集め、最高に動悸がしている。42キロを走り切れるかすら分からない、途中で水の補給に失敗して不調を起こすかもしれないし、誰かに足をかけられて怪我をするかもしれない。この緊張は、ぬるま湯に浸るようにして生きて行こうとする方は、一生、味わうことない性質のものと思っています。

起業の醍醐味や苦難、アントレプレナーの資質に話を進める前に、まず私自身の人生の経緯を簡単にご紹介させてください。詳細は10月に刊行された拙著『挑戦する経営−千本倖生の起業哲学』(経済界・刊)にも書きましたので、ご関心あれば一読いただければと思います。まず皆さんにお伝えしたいのは、私も最初から起業家だったわけではない、ということです。むしろ、それと対極にあるような、頑迷な組織に所属していました。

稲盛和夫氏との出会いが人生の変革点に

1966年に日本電信電話公社(現在のNTT)に入社し、42歳になるまでの18年間は、数十万人の社員を抱える巨大組織の一社員だったのです。その部長職、部下数千人という、当時のエリートキャリアを42歳の厄年に捨て、1984年に第二電電(DDI、現在のKDDI)を創業しました。このときの創業社長が、(京セラの創業者でもある)稲盛(和夫)さんです。その稲盛さんと、たった二人で、資産規模数十兆円の独占企業に挑んでいきました。

稲盛さんと初めて会ったのは大阪のコーヒーバーです。1杯200円のコーヒーを飲みながら、クラシカルなテーブルの上で、1枚のビジネスプランを書きました。そして、「通信網は、今後の国民生活を支える強大なインフラとなる。それが国家の独占であることは、国民にとって良くない。来るべき民営化を見据え、(NTTと)対等な競争相手を育成しておかなければならない」という志を話しました。志や指すゴールは明確でしたが、私には、先立つものもなければ、経営の技術もなかった。だから稲盛さんを頼ったのです。「私は事業の中身をやりますから、資金とプロセスを教えてください」、と。この邂逅が全ての始まりでした。コーヒーは稲盛さんが奢ってくれました(会場笑)。

こうした人生の変革点は、漫然と過ごしては決して得られないものです。本やケースを読んでいるだけでも起きません。人の人生を決定的に変えられるのは、やはり、人だと私は思う。人と出会い、人の話を聞くこと。私にとっては、イー・アクセス、イー・モバイルを共に興したエリック・ガンとの出会いも、その一つでした。冒頭、「今日は皆さんと対決するつもりで来た」と申し上げたのもそのためです。私の話を聞き、それが人生の起点となったという人が一人でも出て来てくれれば、それだけで今日のセミナーは大成功だと思う。そうなってくれたら、本当に嬉しいと思っています。

DDIの起業については1983年9月、日経新聞のトップ面に載りました。そして翌日から、大変な抑圧や誹謗が始まりました。NTTを辞める際、ある程度の逆風は想定していましたが、その逆風たるや、本当に酷いものでした。いくら素晴らしい志を抱いて始めたところで、国家の独占企業に立ち向かっていく存在というのはまるでドン・キホーテだった。日本社会の、変革者への厳しさというのは、ぬくぬくとした環境に身を置き続ける人には、想像のつかないものと思います。

その後、48歳のとき(1990年)には社内ベンチャーとして携帯電話会社(DDIセルラーグループ、現在のau)を興し、51歳(1993年)になってからPHSの会社(DDIポケット、現在のWILCOM)を興しました。

大変に悩ましいことですが、企業というのは売上規模が1兆円を超えてくると、自分自身が(DDIを興す際にそうであったように)否定し、壊そうとした、何か壁のようなものが自分自身の周囲に出来上がってくるのですね。それでDDIポケットが軌道に乗ったところで、もう辞めようと決めました。そして、次代を担う起業家を育成する一助になれればと、慶應義塾のビジネススクールでアントレプレナーのクラス(ベンチャー企業経営論、IT経営論)を教え始めました。

同時期、米国スタンフォード大学からも誘いがあったのですが、ベンチャーの実践者として私自身が越えてきた苦難や、考えてきたことが役に立てるのであれば、やはり日本のビジネスパーソンに対してであろうと。ちょうど慶應では、それまでのように大企業のミドルを育成するだけではいけないという問題意識からSFC(湘南藤沢キャンパス)が創設されるなどしていた頃であり、そんなこともあって私に声がかかったのです。

還暦を目前に再び起業、好敵手・孫正義氏と通信事業を変革

5年ほど教鞭を執り、57歳になった頃(1999年)、世ではインターネット革命が起きつつありました。その頃、私はスタンフォードでも教えていましたが、米国ではインターネットが常時接続で利用できるにも関わらず、日本ではダイヤルアップで、使い終わると、いちいち接続を切らなければならないという状況だった。これはNTTが独占でサービス提供をしていて、通信費が法外に高かったからです。しかも技術の反映が遅く、わずか数十psというスピードでしか使えない。それで月に何万円も取られるのは、何かおかしいと思いました。インターネットは、これからの世の中を変える極めて重要なインフラなのに、と。インターネットは常時接続で使えて然るべきものだし、通信事業は、もっとオープンでなければいけない。そこで、普通の人であれば、もう定年という年齢で、また新たに会社を興しました。それが、イー・アクセスです。

イー・アクセスは3年で黒字転換し、2003年にはIPO(株式公開)も果たしました。(ソフトバンク社長の)孫(正義)さんは、この頃からの好敵手ですね。Yahoo!BBと競争しながら、ともに日本の通信業界を盛り上げ、ADSLを世界最安のサービスにしました。

アントレプレナーにとって好敵手というのは必須の存在だと思います。スタイルの違いというのはあります。孫さんは、物凄いリスクを取って、ファイナンシャルのレバレッジをかけ、一気にシェアを取りに行くタイプ。私は、あれだけのリスクテイクはしません。基本的なことを、きちんと絶え間なくやるというのが私のスタイルです。経費を最小に抑え、最短で黒字にして、それからIPOで資金調達をする。正統派のベンチャーというのは、そういうものだと私は思うのです。孫さんは色々な意味で特異な存在だし、あれは誰もができるやり方ではないでしょう。逆に彼は、私のように小さなことをコツコツと積み重ねるスタイルは選ばないでしょう。

イー・アクセスは2004年にはマザーズから一部に上場市場を変更し、企業価値は千数百億円規模にまでなりました。私は、その会社の創業CEOですし、KDDIでも個人の筆頭株主でしたから、ありていに言えば、お金には困ってはいません。ですから、「そろそろ引退かな」と思っていました。60歳を過ぎて、使え切れないくらいの資産があったら、普通はそう思うでしょう?ところが63歳にして突如、また起業してしまうわけです。

2005年に興した、私の5つ目の会社、イー・モバイルは移動体通信の会社です。これに対し、イー・アクセスで2000年から2005年にかけて行ってきた大改革は固定通信におけるものでした。イー・アクセスでは、音声通話には全く手を触れず、ADSLによって定額でインターネットを高速に利用できるようにすることに特化してきました。

63歳を迎え、私が、ふと思ったのは、固定通信のドメインで起きたのと同じことが、いずれモバイルのドメインで起きるだろうということでした。現在、日本の携帯電話の加入者数は1億を超えており(イー・モバイルの創業時は8000万程度)、「電話番号を教えて」と言ったら、大概の人が固定電話ではなくて携帯電話の番号を伝える、そんな状況が生まれています。であれば次に来るべきは、モバイル通信における改革だろうと。そして、そのスケールは、固定通信の改革よりも、さらに大きなものとなるだろうと考えました。

そんなことを思いついてしまったものだから、還暦を越えてから、また会社を作って苦闘しているのです。けれど、こうして苦闘していることが、少し引いた目線で眺めると、実に楽しいんですね。この歳にもなって、なぜ、こんなにも働くのかと思うことはあります。しかし私の内面の充実度は、釣りに興じる同年齢の方々とは全く異なるものだと自負していますし、素晴らしい人生であると感謝しているのです。

国際水準と比して日本は「携帯後進国」だ

振り返れば、DDIを興した当時(1984年)、東京—大阪間の(固定電話の)通話料は、3分間で約400円もしました。ところが同時期、米国では同等の距離での通話料は、100円程度だった。どうして日本よりも生活費の高い米国で100円のものが、日本で400円もするのか。それはサービスがNTT1社に独占されていたからです。結果として、「電話回線が欲しいのであれば、こちらの指定の期日まで待ちなさい」などと、どちらがお客か分からないようなことがまかり通っていた。しかし、DDIが参入し、市場に競争原理が持ち込まれ、いまや(以前は400円だったものが)約8円で話せます。通話料は20余年で50分の1まで下がったのです。

固定通信も同じです。2000年になっても「64kbpsのISDNを使ってください」だなんて、変だと思いました。その回線速度で、しかも、月30時間程度のインターネット接続をするだけで、数万円の通信費をお客に負担させていた。それが、私たちやソフトバンクの参入などにより、2006年には、50Mbpsという世界最大級の高速回線を、2000円台で常時接続できるところまで改善されました。海外では、まだ、7Mbps〜10Mbpsというのが一般的ですから、わずか数年の間に、一気に追い抜いたのです。だから何千万人というインターネットユーザーを創出できた。これには、もちろん、自らがリスクを取ってファイナンスにレバレッジをかけ、大変な勢いで市場を切り拓いていった孫さんの功績もあります。

さて、そこから携帯電話に目を向けると、同期間にまるで料金の変わっていないことに気づかされます。1999年時点での携帯電話の月額平均利用料金は7500円程度、2006年時点は6500円程度と、10数パーセントしか下がっていないのです。日本の携帯電話は、現状に甘んじてしまっているのですね。インフラが安くならなければ、その上に乗るサービスは活性化しません。だから、これを変えなければいけない、そうして日本のIT産業を引き上げなければいけないと思いました。

日本は、各国と比べ、モバイル分野では遅れているのです。そう聞いて、「普及率も高いし、iモードなどのデータ通信サービスも充実しているし、むしろ進んでいるのではないの?」と思われた方が多いのではないですか。新聞などにも、「日本の携帯電話の市場は飽和状態」などと書かれています。でも、そのまま鵜呑みにしていてはいけません。国内の状況だけを見て、世界の水準に鈍感になっていてはダメなのです。

世界の携帯電話普及率を調べると、例えばルクセンブルグは151.9%と、100%を大きく上回っています。2回線を保有している人が多数いるのです。これに対して日本は80%に満たない、世界では50位前後の普及率です。そう聞くと、まだまだ伸びしろがあると思えてくるでしょう。普及率の上限は100%ではありません。そもそも日本は世界の先進国の平均と比べると、普及率はまだ数十%近く下回っているのです。そこから積算すると、あと4000万〜5000万の回線契約が結ばれて、ようやく世界の水準に届くというレベルなのです。

端末についても同じようなことが言えます。日本の携帯端末メーカーを全て束ねてもシェアは6〜7%程度にしかならないのです。日本の携帯端末事業はどの企業もみな赤字ですよ。世界でシェアを握っているのはノキアやサムソン、モトローラです。ビジネスとして見たら、何も素晴らしくない。日本のモバイル戦略は、何か決定的に間違っています。

一つは規格の問題ですね。PDCというNTTが開発した国産技術を採用した日本の2G(第二世代携帯電話)は、どこの国に行っても使えなかった。「ブラックベリー」も「アイフォン」もキャリア(通信会社)を選んでしまう。

そして、日本の携帯電話は、コストが割高です。1分当たりの通話料が今もって約40円もかかる。香港では6円、米国では8円です。シティ国家と呼ばれる(ほど小さな)香港でも、6社とか7社とかいうキャリアがサービスを提供し、鎬を削っていますが、皆、儲かっているのです。

日本の市場のおかしさは、世界を見ないと分からない。テレビの前に座って日本の携帯電話会社のCMを観ているだけでは気づけないのです。

イー・モバイルは日本初の携帯ブロードバンド会社

アントレプレナーは、世のため、人のため、という大義を掲げるもの。そして、世界水準で差異化できるものがなければならない、というのが私の考えです。だから、「日本で4つ目の携帯電話会社」などとメディアに書かれることには抵抗感があります。

私たちが創業したイー・モバイルは既存の携帯会社とは全く異なる、新しい会社です。携帯電話ではなく、最初の携帯ブロードバンドの会社なのです。既存の携帯電話会社は音声通話の事業を展開して、iモードなどの“おまけ”を付けていた。私たちは、高速データ通信にボイスオーバーIP(IP電話)を“おまけ”で付けています。音声通信というのは、データ通信量で言えば大したものではないのです。データ通信のほうが、何十倍、何百倍という容量を必要とする。けれど私たちは、その新しいところをやっていきます。誰かが新しいことをやらなければ惨憺たる状況というものは変わらないからです。

変革というのは、強い意志とガッツがなければできないことです。ましてや、通信のようにインフラ整備に必要な事業には、莫大なお金がかかります。でも私は、だからこそ、60歳を超えてまで起業して、やる価値のあることと思いました。

イー・モバイルは、世界に類のないベンチャー企業を日本発で作るという気概で興しました。今回は、これまでのようにマイルストーンを置き、段階的に資金調達をするというやり方も取っていません。1400億円のエクイティを集め、そこに約2倍のレバレッジをかけてデッドファイナンスをかける。その2段構えで必要資金の3600億円を一気に調達しました。ですから、最初から英語で資料を作り、海外からリスクマネーを募った。1億、2億なら日本にも出してくれる人はいますが、数百億円のリスクマネーとなると世界に出ていかないと集まりませんから。

まず行ったのが、最も審査が厳しいと言われるゴールドマン・サックスです。1週間かけて700ページに及ぶ資料を作り、臨みました。幸いにして彼らは、イー・アクセスの2番目の株主でしたので、その際、相応のリターンを得ていた。そのトラックレコードも含めて勘案し、「分かった」と言ってくれました。ただ、その際、「条件が二つある」と。それは、一つは我々が提示した500億円を上回る、それ以上の投資案件としたいこと、もう一つは、私(千本氏)とエリック(・ガン氏)が指揮を執り続けることでした。マネジメントが変わったら資金は引き上げる、と。だから私は死ぬわけにいかないのです(会場笑)。

先に申し上げたように、ゴールドマンは世界で最も審査が厳しいと言われていますので、彼らが相当額を入れてくれれば、後は続きやすくなります。その後、シンガポールのタマセック等が入り、ここにレバレッジをかけて30行からデットを調達し、2年前にファイナンシングを完了させました。

その後、ネットブックとモバイルデータ通信サービスのバンドル販売などが奏功し、有料サービス開始から、わずか1年半で100万契約を突破。今年10月の加入契約の純増数は10万で、これはソフトバンクに次ぐ第2位でした。その9割以上がデータ通信を主眼にしたもので、明らかに戦略が市場ニーズに適合しているものと自信を深めています。

ベンチャーとは、つまらないことを諦めずに繰り返すことの集積

これまでの経験を振り返り、真のベンチャーとは?と問われたら、私は「夜間飛行」「登山」「非常事態の対応」「成功へ導く運」という四つのキーワードを挙げます。

先ほど、起業前のアントレプレナーの心境は、先の見えないレースに臨むマラソンランナーのそれと似ていると言いましたが、ベンチャー企業の経営というのは漆黒の闇、暴風雨の中を一人、セスナを操縦するのにも似ています。それは(安定した大企業経営の喩えとして)、晴れた昼日中にジェット機のコックピットに座るのとはまるで異なります。

アントレプレナーとは本質的に孤独なものです。エスタブリッシュからは常に嫌われる。本物のベンチャー企業というのは、彼らが作り上げた古い価値観を破壊し、そこから立ち上がってくるものにほかならないからです。だから恐れる。憎悪する。その憎悪の念に耐え、誹謗に耐え、自らの立てた大義を信じて立ち続ける。その覚悟の持てない人には、軽々しく起業することはとても勧められません。

さて、漆黒の闇、周囲の変化の見えない状況でセスナを操縦せよと言われたら、操縦士は何を頼りとするでしょうか。私は、手元の操縦盤だと考えます。刻一刻と変わる瞬間の情報を捉え、判断の指針にしようとするでしょう。ベンチャー企業の経営も同じことです。ですから私は、自らが会社を興すときには、数値での経営管理の仕組みを非常に精緻に埋め込みます。企業経営は勘ではできません。大切なのは、日々の売り上げやコストなどの、会社の隅々までの経営情報が瞬時に司令塔に届くようにしておくこと。でなければ、操縦桿をどのように切っていいか分からないでしょう。判断の遅れが致命傷となることだってあり得るのです。

その際の単位は常に1円です。資本金が数千億円でも数千万円でも、これは変わりません。常に1円でも多く売り上げを立て、1円でも多くコストを削る。それが鉄則です。

一般には、資本金が数千億の会社では億単位のお金の心配をし、数千万円の会社では数十万円のお金の心配をするというふうになりがちなのですが、それではダメなのです。私たちの会社では、社員が首に吊るIDカードの裏に「1円の節約は1円の利益」と書いてあります。カラーコピーなんて贅沢は許しません。利益が、売り上げからコストを差し引いた残り分であるという大原則は、どんな会社であっても変わらない。そして、株式公開をすると、その利益にレバレッジがかかり、何倍にもなって返ってきます。

私の会社では、社員にはストックオプションを付け、自分たちの節約が上場に伴い、どれだけ跳ね返ってくるかということを伝えています。志や大義は、もちろん大切ですが、それだけにはしていないのです。ヒトは精神的な充足のために動きますが、経済的裏づけも必要としますから。

ベンチャー企業の経営は、「登山」にも似ています。大して景色がいいわけでもない長い道程を、木の根や石ころに足を取られないようにしながら、ただ黙々と歩いていく。真夜中から登り始めて、朝の3時、4時と進み、夜明け前、ふっと霧が晴れ、稜線に立って目をやると、眼下に美しい湖が広がっていたりする。そうした性質のものです。

最初から標高3000メートルの先を見据えて登りはじめたら、その長さに途中で心が折れてしまうこともあるでしょう。だから一旦、歩き始めたら、常に目の前70センチメートル先のリスクだけを見て、怠けず、たゆまず、進んでいく。もうダメだ、と思ったときには、あと1歩だけ頑張ってみようと自分を励ます。その繰り返しが、3000メートルの高みまで連れて行ってくれるのです。

ベンチャー企業の経営というのは、そんなつまらないことです。決して派手なものではありません。でも登り切ることができたら、お仕着せのハイキングコースなどを歩いた人とは比べ物にならないような、より大きな充足感を得ることができるでしょう。そういうものです。

先ほど、私の人生を変えてくれた人として、稲盛さんの名前を挙げましたが、松下電器産業(現在のパナソニック)の創業者、松下幸之助さんからも大きな影響を受けました。DDI創業の頃、当時、既に90歳代を迎えていた幸之助さんが、「やり始めたら諦めたらあきまへんで。諦めたときが、あなたのビジネスの失敗するときや。」と言ってくれました。

ベンチャーというのは、つまらないことを諦めずに繰り返すことの集積です。誰もが諦めようとしたとき、あと0.1パーセントだけ、0.1円だけ、と、粘れるか。それが何兆円というビジネスを創っていく。経営者はそういう思想で社員を染め上げなければいけない。そうして、真っ赤に燃える集団を作れたとき、そのベンチャーは大変に強力なものとなります。

自分のドメインに専心する生真面目さが運を引き出す

三つ目は、「非常事態の対応」。ベンチャー企業を経営していたら、ありえない事態など次々と起こります。そうした事態に、どれだけ対応できるかが、経営者の力量の問われる場面なのです。

イー・アクセスが月額5000円の定額サービスを提供していたとき、孫さん(Yahoo!BB)が、2000円台というこれまでの常識を大いに覆す低価格で市場に乗り込んできたことなどは、その際たるものです。

私たちが同じ価格で提供したら、売った分だけ赤字になってしまう。全社員が真っ青になりました。私自身も衝撃を受けましたが、一晩、考え、翌朝には全社員の前で、晴れやかな顔で言いました。「皆さん、これは素晴らしいチャンスです。これだけの低価格でサービスを提供できれば、当初の我々の予想を上回る速さと規模でADSLのマーケットは拡大します。だから、これは天から与えられた試練と思って、皆で乗り切ろう」。そして、それから数カ月のうちにビジネスプランそのものを書き直して、対処しました。

ベンチャー企業には、非常事態が次々と襲いかかります。けれど諦めず、道を探せば、その過程が糧となって、組織はそれまで以上に筋肉質に生まれ変われる。試練をチャンスに変えられるか、ということが成否を分けるのだと思います。

そして最後が、「運」。イー・モバイルの資金調達をしている際、私たちには時間をかけてエクイティに更にレバレッジをかけるという選択肢もありました。けれど、何か胸騒ぎがして、2倍に留め、一気に資金調達を完了させたのです。その後、サブプライムバブルが崩壊することなど知る余地もなかったときのことです。

これがベンチャー経営者の運というものなのだと思います。では、運はどうすれば得られるか。それは自らの立てた大義に対して、誠実に、謙虚に、懸命に努力しているかということが、何かしら人知を超えたものによって評価されているのだと思います。何事も90数パーセントまでは努力によってコントロール可能だが、残りはアンコントローラブルなものと捉えています。

私はクリスチャンですが、何か大きな決断をして動く際、一つひとつのマイルストーンを越えて次に行けたら、私は、それは神が自分のすることを許してくれたのだと考えます。天が、何か、世の中にプラスの価値を生み出す選択をしてくれたのだろうと。逆に、精一杯の努力をしてダメだったときには、それも天の選択なのだろうと思うのです。

何か一つ、大義を成そうとするときには、よそ見などしている余裕はありません。自分のドメインを守ることで精一杯なはずです。企業経営というのは、選挙に出ようとか、六本木で楽しく遊ぼうだとか、そうした気構えでできるものではないのです。

自分のドメインに専心して、人の三倍の負けない努力をする。それを継続するまじめさが、アントレプレナーには求められると考えています。

そして、困難も含め、自分の置かれた環境、周囲の人々に常に感謝すること。自分を批判する人にも感謝する。全てに感謝できるようになったときに、起業家は強くなるのだと思います。

最後に、私が座右にしている経営10カ条を皆さんにもご紹介して今日のお話を終えます。

大きな時代の流れをよく見ること。用意周到に準備をすること。大胆にリスクをとること。良きパートナーを得ること。高い目標を掲げて、明るく、ポジティブに。一旦始めたら、一歩先だけを見つめること。諦めない、成功するまで続けること。大胆さと慎重さの両方が大事。上手くいったら、より大きな次のことを考えること。そして、常に感謝すること。

ご清聴、ありがとうございました。

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