本日は、皆さんと真剣勝負の“対決”をするつもりでやって来ました。講演依頼をいただくことは数多くありますが、今日は、その中でも最も重要なものの一つと位置づけています。なぜなら、皆さんがアントレプレナー(起業家)を志していると聞いているからです。だからこそ、海外出張を短縮してまで、お話をしにやって来ました。ですから、「このままサラリーマンを続けて、あと少しだけ偉くなれればいいな」というぐらいの気持ちで聞きに来られた方は、お帰りいただいても結構です。今日は、リスクもないけれど喜びもない、そうした振幅の少ない人生から、途方もない飛躍と、その分の苦しみや喜びのある人生、つまり、アントレプレナーの人生というものを受け取って帰っていただければと願っています。
私は、これまで4つの会社を立ち上げ、今は5つ目の会社と格闘しています。会社を興す際の緊張というのは、幾つ立ち上げても同じです。それは例えて言うならば、マラソンランナーがオリンピックのコースに立つ、数十秒前の心境に近いかもしれません。多くの人の注目を集め、最高に動悸がしている。42キロを走り切れるかすら分からない、途中で水の補給に失敗して不調を起こすかもしれないし、誰かに足をかけられて怪我をするかもしれない。この緊張は、ぬるま湯に浸るようにして生きて行こうとする方は、一生、味わうことない性質のものと思っています。
起業の醍醐味や苦難、アントレプレナーの資質に話を進める前に、まず私自身の人生の経緯を簡単にご紹介させてください。詳細は10月に刊行された拙著『挑戦する経営−千本倖生の起業哲学』(経済界・刊)にも書きましたので、ご関心あれば一読いただければと思います。まず皆さんにお伝えしたいのは、私も最初から起業家だったわけではない、ということです。むしろ、それと対極にあるような、頑迷な組織に所属していました。
私は、これまで4つの会社を立ち上げ、今は5つ目の会社と格闘しています。会社を興す際の緊張というのは、幾つ立ち上げても同じです。それは例えて言うならば、マラソンランナーがオリンピックのコースに立つ、数十秒前の心境に近いかもしれません。多くの人の注目を集め、最高に動悸がしている。42キロを走り切れるかすら分からない、途中で水の補給に失敗して不調を起こすかもしれないし、誰かに足をかけられて怪我をするかもしれない。この緊張は、ぬるま湯に浸るようにして生きて行こうとする方は、一生、味わうことない性質のものと思っています。
起業の醍醐味や苦難、アントレプレナーの資質に話を進める前に、まず私自身の人生の経緯を簡単にご紹介させてください。詳細は10月に刊行された拙著『挑戦する経営−千本倖生の起業哲学』(経済界・刊)にも書きましたので、ご関心あれば一読いただければと思います。まず皆さんにお伝えしたいのは、私も最初から起業家だったわけではない、ということです。むしろ、それと対極にあるような、頑迷な組織に所属していました。
稲盛和夫氏との出会いが人生の変革点に
稲盛さんと初めて会ったのは大阪のコーヒーバーです。1杯200円のコーヒーを飲みながら、クラシカルなテーブルの上で、1枚のビジネスプランを書きました。そして、「通信網は、今後の国民生活を支える強大なインフラとなる。それが国家の独占であることは、国民にとって良くない。来るべき民営化を見据え、(NTTと)対等な競争相手を育成しておかなければならない」という志を話しました。志や指すゴールは明確でしたが、私には、先立つものもなければ、経営の技術もなかった。だから稲盛さんを頼ったのです。「私は事業の中身をやりますから、資金とプロセスを教えてください」、と。この邂逅が全ての始まりでした。コーヒーは稲盛さんが奢ってくれました(会場笑)。
こうした人生の変革点は、漫然と過ごしては決して得られないものです。本やケースを読んでいるだけでも起きません。人の人生を決定的に変えられるのは、やはり、人だと私は思う。人と出会い、人の話を聞くこと。私にとっては、イー・アクセス、イー・モバイルを共に興したエリック・ガンとの出会いも、その一つでした。冒頭、「今日は皆さんと対決するつもりで来た」と申し上げたのもそのためです。私の話を聞き、それが人生の起点となったという人が一人でも出て来てくれれば、それだけで今日のセミナーは大成功だと思う。そうなってくれたら、本当に嬉しいと思っています。
DDIの起業については1983年9月、日経新聞のトップ面に載りました。そして翌日から、大変な抑圧や誹謗が始まりました。NTTを辞める際、ある程度の逆風は想定していましたが、その逆風たるや、本当に酷いものでした。いくら素晴らしい志を抱いて始めたところで、国家の独占企業に立ち向かっていく存在というのはまるでドン・キホーテだった。日本社会の、変革者への厳しさというのは、ぬくぬくとした環境に身を置き続ける人には、想像のつかないものと思います。
その後、48歳のとき(1990年)には社内ベンチャーとして携帯電話会社(DDIセルラーグループ、現在のau)を興し、51歳(1993年)になってからPHSの会社(DDIポケット、現在のWILCOM)を興しました。
大変に悩ましいことですが、企業というのは売上規模が1兆円を超えてくると、自分自身が(DDIを興す際にそうであったように)否定し、壊そうとした、何か壁のようなものが自分自身の周囲に出来上がってくるのですね。それでDDIポケットが軌道に乗ったところで、もう辞めようと決めました。そして、次代を担う起業家を育成する一助になれればと、慶應義塾のビジネススクールでアントレプレナーのクラス(ベンチャー企業経営論、IT経営論)を教え始めました。
同時期、米国スタンフォード大学からも誘いがあったのですが、ベンチャーの実践者として私自身が越えてきた苦難や、考えてきたことが役に立てるのであれば、やはり日本のビジネスパーソンに対してであろうと。ちょうど慶應では、それまでのように大企業のミドルを育成するだけではいけないという問題意識からSFC(湘南藤沢キャンパス)が創設されるなどしていた頃であり、そんなこともあって私に声がかかったのです。
還暦を目前に再び起業、好敵手・孫正義氏と通信事業を変革
イー・アクセスは3年で黒字転換し、2003年にはIPO(株式公開)も果たしました。(ソフトバンク社長の)孫(正義)さんは、この頃からの好敵手ですね。Yahoo!BBと競争しながら、ともに日本の通信業界を盛り上げ、ADSLを世界最安のサービスにしました。
アントレプレナーにとって好敵手というのは必須の存在だと思います。スタイルの違いというのはあります。孫さんは、物凄いリスクを取って、ファイナンシャルのレバレッジをかけ、一気にシェアを取りに行くタイプ。私は、あれだけのリスクテイクはしません。基本的なことを、きちんと絶え間なくやるというのが私のスタイルです。経費を最小に抑え、最短で黒字にして、それからIPOで資金調達をする。正統派のベンチャーというのは、そういうものだと私は思うのです。孫さんは色々な意味で特異な存在だし、あれは誰もができるやり方ではないでしょう。逆に彼は、私のように小さなことをコツコツと積み重ねるスタイルは選ばないでしょう。
イー・アクセスは2004年にはマザーズから一部に上場市場を変更し、企業価値は千数百億円規模にまでなりました。私は、その会社の創業CEOですし、KDDIでも個人の筆頭株主でしたから、ありていに言えば、お金には困ってはいません。ですから、「そろそろ引退かな」と思っていました。60歳を過ぎて、使え切れないくらいの資産があったら、普通はそう思うでしょう? ところが63歳にして突如、また起業してしまうわけです。
2005年に興した、私の5つ目の会社、イー・モバイルは移動体通信の会社です。これに対し、イー・アクセスで2000年から2005年にかけて行ってきた大改革は固定通信におけるものでした。イー・アクセスでは、音声通話には全く手を触れず、ADSLによって定額でインターネットを高速に利用できるようにすることに特化してきました。
63歳を迎え、私が、ふと思ったのは、固定通信のドメインで起きたのと同じことが、いずれモバイルのドメインで起きるだろうということでした。現在、日本の携帯電話の加入者数は1億を超えており(イー・モバイルの創業時は8000万程度)、「電話番号を教えて」と言ったら、大概の人が固定電話ではなくて携帯電話の番号を伝える、そんな状況が生まれています。であれば次に来るべきは、モバイル通信における改革だろうと。そして、そのスケールは、固定通信の改革よりも、さらに大きなものとなるだろうと考えました。
そんなことを思いついてしまったものだから、還暦を越えてから、また会社を作って苦闘しているのです。けれど、こうして苦闘していることが、少し引いた目線で眺めると、実に楽しいんですね。この歳にもなって、なぜ、こんなにも働くのかと思うことはあります。しかし私の内面の充実度は、釣りに興じる同年齢の方々とは全く異なるものだと自負していますし、素晴らしい人生であると感謝しているのです。




