奇跡的な成功を為した「弐キ参スケ」の満州政策
私は数年前、ある出版社から「戦後総理大臣の銘々伝を書いて欲しい」と言われて執筆したことがあります。東久邇宮首相から安倍首相までの範囲で書いておりました。私はそのあいだに首相となったすべての方々を終戦直後から、間接あるいは直接見知ってきております。彼らがどのような決断をしたか、どのような法律をつくったかということを、一応、ざっと見続けてきました。
そうして見ておりまして、あることが分かりました。たとえば富士山というのは遠くから見ますと高いと感じますよね。ところが実際にうんと近くへ行くと、まあ高い山でも小さい山でもだいたい同じ高さに見えます。そこで再び離れるとよく分かる。そんな風にして現代から振り返ったうえで「戦後総理大臣で最も偉大だったリーダーは誰か」と聞かれたら、これはもう断然、岸信介になります。
岸信介さんは戦前はエリート官僚であり、四十幾つで当時の商工次官となりました。満州の経済政策を引き受け、当時「弐キ参スケ」と呼ばれていた実力者のひとりです。弐キは東條英機と星野直樹で、参スケというのは岸信介のほか、鮎川義介と外交官の松岡洋右ですね。
彼らの満州政策は、もう奇跡的な成功でありました。現在では満州というものについてあまり語られませんけれども、当時は満洲国が独立して…、独立というか満州帝国が出来た訳ですね。清朝最後の皇帝は満州族なんです。清朝というのは満州族の王朝なんです。彼らの先祖が徳川家康の時代に満州を制覇し、そしてその孫ぐらいの代になって北京および全支那を征服しました。
ですから清国というのは満州族王朝でありました。それに対して独立運動が起こった訳です。孫文はこれを革命と言いました。まあ、ある意味では革命かもしれませんが。孫文は日本に来てから革命という言葉を覚え、それを大変気に入ったそうです。しかし本当は支那人の満州族に対する独立運動だったんですね。それで紫禁城を追われまして、北京市で殺されかかっていた溥儀が日本の公使館に転がり込んできたという訳です。これがそもそものはじまりでした。
で、当時の日本には歴史を知っている人が多かったので、「満州人ならば満州の祖国に返せばいいのではないか」となった。そこで彼を満洲国皇帝に奉りあげました。これは傀儡政権と言っても良いのですが、皇帝は満州族です。先祖代々から続く彼らの血を引く皇帝であり、大臣もすべて満州人および清朝の忠臣でありました。ですから傀儡政権と言っても立派なものだったんです。
しかし彼らは近代化を成し遂げる能力や組織を持っていませんでした。それを助けたのが冒頭で申しました参スケです。岸信介は経済政策を担当し、鮎川義介は実業家として日産グループの母体となった企業を持って行き、そして松岡洋右は満鉄総裁として活躍しました。南満州の鉄道ですね。そうしてわずか十数年のあいだに満州を世界で最も輝ける地域にしていったんです。
それがどれほど素晴らしかったか。ソ連は敗戦直前、火事場泥棒のようにして満州の主な工場を皆持っていきました。ただ、持っていかれたのですが残っていたものもあった訳ですね。そしてそのあと?小平が改革開放政策をとるまで、中国におけるほとんどの工業生産はその残りで行なれていたほど素晴らしいものだったんです。
当の岸信介は東條内閣発足時に商工大臣となり、のちに軍需次官へ…、大臣は東條さんが兼任しましたから次官となりましたが、実質的には大臣となりました。しかし安倍晋三さんが総理になったとき、野党のどなたかが愚かにも「あなたは自身の祖父が東條内閣の大臣であったことを恥じないのか」と言ったんです。すると安倍さんまで反省しているというようなことを言った。ですから私は後日お会いする機会があったときに「とんでもない」と安倍さんに申しあげました。
東條内閣というのは当時の天皇陛下に「何がなんでも戦争がはじまらないようにせよ」という目的を以って任命されたのです。ほかに引き受け手はいませんでした。当時、軍隊を抑えながら平和交渉を行うことの出来る力を持った人物は東條しかいなかった。ですから東條は、本当にありとあらゆる力を尽くして和平交渉を行いました。それに協力するため、経済界から当時の商工省を握っていた岸信介が入閣していたんです。ですから安倍さんに「平和のために大臣となったのであって、何も恥じることはありません」と申しあげたんですね。当のお孫さんですらそのようなことを教わっていないような、そんな日本の教育が情けないですね。
結局のところ、戦争をはじめたのは東條という形になりました。しかし、昨今はこれまで秘密とされていた資料も出てきています。どのみちアメリカは日本と戦争をするつもりだったんですね。すでにルーズベルト大統領は1941年の9月何日かに、日本空爆を求める署名にサインをしています。ですから現代から見れば、平和を目指した東條内閣の努力というのは無駄であったことが分かります。実際に戦争もはじまってしまいました。
岸信介は戦前、「計画経済を志向している」と悪口を言われていました。しかし当時の様子を見ると世界はすでにブロック経済化していた。ソ連、イギリス、アメリカ、それからナチス…、なんだかんだ言って自由貿易が出来なかったんですよ。その状況下でどのように生きていくのかと考えたとき、出来ることは一つでした。国家で経済を統制し、資源を上手く使うほかに仕方がなかった訳ですね。それだけの頭と器量と迫力を持った人物の代表格が岸さんだったというお話です。
しかし戦争がはじまり、のちにサイパンが落ちますと、岸さんは「もう自信がありません」と。これからは終戦に向かって努力して貰うほかないと言いました。その以前から「サイパンは守ってください」と言い続けていたんです。ところが東條さんは残念ながら、統帥のこと、あるいは軍事のことに口を出すなと言って岸さんの話に耳を貸しませんでした。ですからサイパンをろくに防御しなかった。しかしサイパンが落ちたら本当に物資が来ませんから戦争を続けることは出来ません。
東條さんは岸さんのクビを切ろうとしました。ただ、切りたかったのですが当時の憲法上それは出来ません。大臣のクビを切ろうと思ったら総理大臣をはじめ内閣が総辞職する必要があった。そしてそのあと、天皇に再任されたら新しい内閣をつくることが出来る訳ですが、嫌な人がいたらそのときに外すという形にしか出来なかったんですね。結局のところ東條さんを引きずり落とすひとつの大きな力となったのは、岸さんと東條さんが意見を異にしたということであります。まあそんなことを買われてか、戦後に岸さんはA級戦犯になりましたけれども死刑は免れました。
日本の平和と安定、そして繁栄は岸信介氏の改訂した枠組みの中にあった
私も終戦直後にドイツへ留学する機会があったので分かります。当時の東京では学生寮もトタンづくり。冬は外の寒さと寮内の寒さが同じで、夏はもういられないぐらい暑い。トイレも外にあるというような、そんな代物でした。ところがドイツへ行って見てみますと、敗戦後に建てられた学生寮でもセントラルヒーティングで、水道も部屋まで来ているんですよね。当時の日本であれば一流旅館でも水はだいたい廊下まで。部屋までは来ていませんでした。
岸さんはそんな部分も知っていたんでしょう。ドイツへぱっと見に行って、アデナウアー首相の良いところを採り入れました。彼は外交ではアメリカと一緒にやっていく、共産主義には一切妥協しない、そして経済は自由主義。それによってドイツはあっという間に戦勝国のイギリスを超えるような復興を遂げました。岸さんはそれを見て「その通りにやろう」と考えました。
岸さんは戦前の人ですし、戦前の事情をよく知っています。ですから先の戦争で日本だけが悪かったなんて思っていません。爪の垢ほども思っていないんですよ。ですから彼には政界に復帰したのち、ともかくも最初にやらなければならないことがありました。まず強引に自由党と日本民主党による保守合同を進め、そうして誕生した自由民主党の幹事長となりました。そのあと自らが首相になった訳ですね。そこで最初やらなければならなかったのが、憲法改正ということです。
岸さんは東大法学部出身で、在学中は1〜2を争う秀才だったそうです。東大で教授になろうと思えばなることも出来たそうで、とにかく頭がものすごく良かったと。ですからいわゆる新憲法というものが憲法ではないこともよく知っていました。憲法というのは主権の発動です。占領下で主権がある筈はないんです。しかも占領軍は恒久的な法律を被占領国に課してはいけないと、ハーグ国際条約でも決まっている訳です。
つまり国際条約違反のもとで勝手に進駐軍が日本に憲法をつくらせた。日本人がつくったという形にした。それも自分の意図を入れてね。すなわちそれは占領政策基本法であると岸さんは見てとりました。ですから、だからこそ、まずはこれを変えなければいけないということですね。
また、サンフランシスコ講和条約における一番の欠点として、独立を回復したと言いながらも米軍が日本において占領時代と同じように動けるということがありました。米軍の駐留に関しては占領時代と同じだったんです。ですからまず安保条約を改正して、日本として対等の条約にしなければいけない。そこで安保改定を第一に目指しました。当り前なんです。誰が見ても、少しも悪いことではありません。改定しなければアメリカ軍は占領時と同じように振る舞える訳ですから。
ところが…、皆様のなかですと覚えている方はいらっしゃらないかもしれませんが、60年安保闘争というものは空前絶後。それはそれは怒涛のごとき闘争でした。わっしょいわっしょいと、もう何万もの人々が議会に毎日押しかけてきた。それで警察も守ることが出来なくなって「どこかへ避難して隠れてください」というようなことを岸さんに言ったんですね。そこで岸さんは「首相の俺が一体どこへ隠れようというのか。死ぬならここで死ぬのだ」と言い放ちます。度胸はありますよ。戦前の人ですから。しかもA級戦犯として絞首台を目の前に見ていますから。
デモが最も盛り上がったとき、もう首相官邸には弟の佐藤栄作さんと岸さんの二人しかいませんでした。お付きの人間たちも皆、怖がって逃げてしまった。しかし安保改定は通しました。そうして成立した安保条約の枠組みは、今に至るまで少しも変わっていません。岸さんが通したままですよ。そののちに高度成長も何もかもがあった訳です。
こんなことを申しあげると自慢になってしまいますが、当時外国から帰ったばかりの私は「この条約改定のどこが悪いんだ」と言っていました。そんなことは誰でも分かります。ですから上智大学のなかで岸首相を励ます会というのをつくりました。あまり集まらなかったのでデモなんぞは出来ませんでしたけれども。まあそれでも「せめて岸さんを励ましましょう」ということで、岸さん宛てに激励の手紙などを書いたぐらいのものでした。ただ、いずれにせよ岸さんは怒涛のごとき当時のデモに屈しなかった。他の人間は大丈夫なのに皆逃げてしまったんですね。しかし彼は屈しませんでした。条約改定は自動で通った訳ですが、その後、右翼に刺されて引退なさった訳です。
とにかくそのあと何十年と続く日本の平和と安定、そして繁栄は、岸さんが改定した枠組みのなかにあったんです。一人あたりGDPが一時アメリカを超えるほどにまで成長したのは、その枠組のなかでだったんですよ。これは素晴らしいと思います。あれほどの怒涛のごとき世論を押し切り、「もうこれしかない」と。もし岸さんが刺されずに少なくともあと5年、あるいはあと10年首相の地位におられましたらと、私は今でも残念に思います。もしそうなっていたら、現在、我々が大きな問題と言っているものも皆無くなっていたのではないかと思われるほどです。
しかし実際には安保を改定したのち、さらに憲法をいちからつくり直さなければいけなかった。しかしあの安保闘争における凄まじい左翼の攻勢に恐れをなした以降の首相たちが、それを表に出すことはありませんでした。一応、綱領のなかでは唱えたりしますけれども。で、岸さんの後を継いだ池田内閣は所得倍増計画という経済主義に走りました。経済主義自体は成功した訳ですし、それはそれで良かったと私も思います。しかし「日本が独立国であるために今の憲法では駄目なのだ」という、岸さんが最初から目指していたことは皆いつの間にか忘れてしまった訳ですね。
憲法9条なんて言いますが、あれはまあ運動家のインチキというか、一つの手なんですね。本当に問題にしなければならないのは前文ですよ。憲法前文のなかで日本国民は生命を…、命をですよ?日本人の生命と安全を、平和を愛する他所の国に預けると書いてあるんですよ。国民の生命を外国に預けるなんていうそんな前文が、どこの国の憲法ありますか。しかし前文については「九条の会」の人たちも言及したがらないんですね。さすがに「命まで外国に預けるのは嫌だよ」と言われてしまうから。ですからそれをずっと誤魔化し続けているという訳です。
いずれにせよ、世論の大変な反発を受けますと勇気ある首相でも一番大切なことをやりかねてしまう。ですから私としては、…今年で82歳になりますが、私としては本当にあのとき岸さんがあと5年、可能であればあと10年、首相を続けてくれていたらという思いを持っています。




