一人の中に多様な人格を持つマルチパーソナリティの時代
私は二つの仕事を掛け持ちしております。一つはインターネットのWebマーケティングのコンサルティング。これは数字が目に見えて、結果として表れてくる世界で、一緒に働く職場の仲間も、論理的で男性が多い社会です。もう一つは、結婚・恋愛の相談を受けるカウンセリング。そちらは女性がほとんどで、結果が目には見えない。何かを感じ取って、そもそもこれで良かったのかどうなのか、その判断がなかなか難しい。ただその中で、いま言ったような数字で目に見える世界と、目に見えない感情の世界、ついついその二つを、どちらかに答えを求めてしまう。でも実際は、永遠に答えが出ない。その矛盾を感じながら、日々仕事をしています。この答えを求めているわけではないのですが、何かご経験の中から一つでもお言葉を頂戴できればと思います。
田坂氏
私が最初に申し上げたいのは、ご質問者の方は、素晴らしい立場にいらっしゃるということですね。なぜなら、これは小生の著書、『未来を予見する5つの法則』の中に書いたことですが、これからの時代は、「マルチパーソナリティの時代」になっていくからです。
これまで、我々は、一つのペルソナ(仮面)で生きてきました。例えば、ある企業に就職し、定年退職までの何十年、一つの職場、一つの職業で仕事をするという方が、数多くいました。その結果、それがメーカーのエンジニアの世界であれば、そのメーカーの文化、エンジニアの職場の雰囲気ので、無意識に、ずっと「一つのペルソナ」で生きていくことになるわけです。もしそれが、「男性社会」的な職場なら、私も、その「男性社会的な雰囲気」に合わせ、それでずっと生きていくことになります。それが、これまでの社会の在り方でした。
しかし、人材流動化が進み、一人の人間が生涯を通じて、いくつもの企業、いくつもの職場で働くようになる。余暇時間も増え、仕事以外に趣味を持ち、NPOなどの活動に参加する人も増える。また、インターネット革命の結果、我々は容易に、様々なコミュニティに参加し、様々な活動に取り組むことができるようになった。その結果、我々は、無意識に、いくつもの人格、パーソナリティを使い分けて生きていくようになります。言葉を換えれば、我々は「何人もの自分」を生きられる時代になったのです。
これまでの時代は、自分の中に色々な人格の自分がいながら、同じ会社、同じ職場で一つのペルソナを被り、一つの人格を演じるようになると、それ以外の人格は、その大半を抑圧していました。そのペルソナ以外の他の人格が表に出てくるのは、家に帰って子どもを抱くときに「子煩悩な父親」としての姿が出てきたり、高校の同窓会で「昔の楽しいあいつ」になるということもありますが、せいぜいそれくらいでした。
しかし、これからの時代は、かなり違ってきます。皆さんの中には「マルチハット」(Multi Hut)の方が沢山いらっしゃるのではないですか。最近では、「職業は?」と聞かれて、名刺を何枚も出す方がいらっしゃいます。「昼は、あるメーカーに勤めていますが、週末はNPOで活動しています。そして、趣味でカメラをやっていますので、夜は、自分の写真ギャラリー・サイトを創っています」などといった方が増えています。これが「マルチハット」(いくつもの帽子を被る人)と呼ばれる人ですね。
実は、これは、弁証法の法則「螺旋的発展」が起こっているのですね。古く懐かしいものが、新たな価値を伴って復活してくる、という法則です。私はしばらく前に、『Voice』という雑誌に論文を書きました。「ダヴィンチ社会」についての論文です。かつては、レオナルド・ダヴィンチのように、いくつもの分野に才能を発揮する人は結構いたのですね。それが、分業化と専門化の時代において、消えていった。しかし、懐かしい「ダヴィンチ社会」が、もう一度戻ってきたのです。もちろん、ダヴィンチほどの天才ではないにしても、様々な分野で才能を開花させ、発揮する人が増えているのです。我々は、自分の中に眠っている様々な才能を開花させ、様々な人格を生きることのできる時代を迎えているのです。
ですから、質問者の方は、コンサルティングの世界で、一つの才能と人格が開花されていくと同時に、カウンセリングの世界でもまた、別の才能と人格が開花していくのかと思います。ですから私は、それを、「素晴らしい立場」にいらっしゃると申し上げたのです。
そして、この「自分の中のいくつもの人格」の存在を理解することができるならば、現代においてよく使われる一つの大切な言葉が、なぜ、実践できないのか、その理由も理解できるでしょう。それは、「多様な価値観の尊重」や「多元主義」という言葉です。すなわち、現代においては、国連に行っても、世界中の国際会議に行っても、どこに行っても、「これからは多様性が大切だ」と語り、「多様な価値観の共生が大切だ」と語っています。そのことに反対する識者は、まずいません。では、なぜ、現実に「多様な価値観の共生」が起こらないのはなぜか。
それは、我々の一人ひとりの中に、「多様な価値観の共生」が起こっていないからです。
自分の心の中で、「これは本当の自分」「これは偽物の自分」というように区別を持ちこみ、好きではない人格については、それを抑圧し、受け容れなければ、個人の中において「多様な価値観の共生」は実現できません。そして、個人において実演できなければ、社会においても、それは実現できない。本当に「多様性を受け容れる社会」を実現したいのであれば、実は、我々一人ひとりの個人が、自分の中の「多様性」を受け容れていかなければならない。東洋思想は、昔から、自分の中に多様な自分がいるということを、教えています。東洋思想では、「自分の中に悪魔がいる」といった形で、単純な二分法で人間を見ないのです。
たしかに、「多様な自分」を生きるということは、ある意味で苦しいことですね。しかし、それは、とても豊かな生き方ではないでしょうか。苦しいことも含めて、それを楽しまれたらよいかと思います。
会場
田坂さんがおっしゃった知能と知性について。知能は、勉強したり本を読んだりして身につくと思いますが、知性のほうは、どのようにして身につけたり磨くことができるのでしょうか。実際に田坂さんはどういうことをして、ご自身が持っている知性を磨いてきたのでしょうか。
田坂氏
まず、我々が理解すべきことがあります。人生においては、「それを目的として身につけられるもの」と、「結果として身につくもの」があります。例えば、自動車の運転は、それを目的として身につけることができます。しかし、知性とは、それを目的として身につけることはできないと思います。そして、「結果としてしか身につかないものを、目的にしてしまう」。それが「現代の病」と思います。質問者の方には恐縮ですが、「知性を、どのようにして身につけたらよいのか」という問題の立て方そのものが、何かの落とし穴に入っているのだと思うのです。
これは、非常に大切なことを申し上げているのです。例えば、「幸せ」という言葉もそうですね。どうしたら幸せになれるかと考えたときは、あまり幸せにはなっていません。例えば、何かのときに、「ああ、有り難いなあ」と思ったとき、それは、結果として「幸せな状態」ですね。これを少しシンプルに申し上げるならば、もし我々が「幸せな状態」になりたいのであれば、むしろ「感謝する」ということを覚えることが最も正しい方法なのかもしれません。
私に知性があるかどうかは、私自身、謙虚に考えるべきことですが、もし仮に、私に「答えのない問いを問い続ける力」という意味における知性があるとすれば、実は、私は「知性を磨きたい」と思ったことは、一度もありません。敢えて申し上げれば、心の中に「永遠の問い」を抱くことが大切であると思っています。「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉がありますが、私にも、生涯をかけて問うてみたい言葉があります。例えば、「私とは、何か」「他者を愛するとは何か」、そして、「なぜ、この宇宙は、137億年前に、生まれたのか」「その137億年の悠久の時間の流れの中で、なぜ、我々人類が生まれたのか」。そうした問いです。そうした「永遠の問い」と呼ぶべきものを、まさに自分自身の人生の最も深い問いとして、抱きながら歩むということが、大切なことと思います。
従って、これは、究極、「感性」の問題になってきます。例えば、素晴らしい夕日が沈むのを見るとき、人間というのは、不思議なほど、分かれてしまいます。「いい夕日ですね」と言った瞬間に、深い共感とともに、「ああ、そうですね」と応える人もいれば、何の感慨も持たず、「おお、そういえば真っ赤ですね」で終わる人もいます。これは、やはり、人間の「感性」の問題だと思うのです。
ただ、敢えて申し上げるならば、我々は、長くても100年の人生、一瞬の人生を駆け抜けていくのですね。では、なぜ自分は、この世界に命を与えられたのだろうかと考えるならば、それは、「答えの無い問い」、「永遠の問い」ですね。そして、それは、奇跡とも思える出来事です。この奇跡のごとき出来事に対する不思議さ。レイチェル・カーソンの言葉を借りれば、“The Sense of Wonder”。それを深く心に抱かれるならば、結果として、そこには、「知性」と呼ばれるものが生まれてくるのだろうと思うのです。
ぜひ、この「永遠の問い」を、心の中で大切にして頂きたい。それは、もし我々が、自分の人生を真摯に深く見つめるならば、おのずとそこに生みだされるものだと思います。ただ、私自身がその「永遠の問い」に直面したのは、実は、人生の中で、生きるか死ぬかの体験をしたときです。私は、自分の命は長くないという極限の状況に置かれたとき、おのずと深い問いが、心の奥から生まれてきたのです。そして、いつ自分の命が終わるとしても、この問いを、命尽きるその瞬間まで問い続けてみようという覚悟が、定まったのです。
そのことを、最後に申し上げたいと思います。




